2011年2月11日金曜日

京の近代建築 (その3)

カメラ片手にぶらりと散策しました。
明治時代 (その3)

1・京都大学正門 [旧第三高等中学校正門] (国登録有形文化財) -京都市左京区吉田本町ー

京都大学は1869(明治2)年、大阪で舎密局として開校。 1886(明治19)年に第三高等中学校と改称された。
明治22年 京都へ移転され、同27年 第三高等学校となった。
明治30年、京都帝国大学創設。 1947(昭和22)年 京都大学となった。

2・京都大学 総合人間学部正門と門衛所 {旧第三高等学校正門と門衛所] (国登録有形文化財)
*人間学部正門*


*八角屋根の門衛所*










明治30年、第三高等学校正門として建設。 木製の両脇に通用門がついている。
門衛所と共に真水英夫氏の設計という。

3・京都大学 尊壌堂 (国登録有形文化財)

1903(明治36)年建築。
幕末の長州藩士・品川弥二郎(松下村塾門下生:明治期の政治家)が吉田松陰の意志を継いで明治20年に京都高倉錦小路の尊壌堂を建造そし、尊王志士の霊を祀り、志士の殉難資料や遺品、遺墨等を収集して、祭儀などを行った。
品川弥二郎の死後(1900年没)、1903年 京都大学に寄贈された。

ちなみに品川弥二郎は戊辰戦♬争の際に官軍が
歌った♪・・・
♪「トコトンヤレ節」(宮さん宮さん)を作詞したと
言われている。

4・京都大学 清風荘 (国登録有形文化財) -京都市左京区田中関田町-

*京都大学HPより*
1732(享保17)年ころには徳大寺家の別荘であった。
徳大寺家から西園寺家へ嗣子となった西園寺公望
公爵の京都別邸として使用されていた。
その後、公望公の実弟・友純(春翆)が養子にいった
住友家が譲り受け、住友家から京都大学へ寄贈されたもの。
庭園は1911(明治44)年から5年をかけて明治・大正
時代の庭師である七代目小川治兵衛の作庭である。
現在は内外の賓客接待や教官の集会に利用されている。
*一般非公開*



5・日本聖公会聖アグネス教会聖堂 (京都市指定文化財) -京都市上京区烏丸椹木町上る堀松町-

1988(明治31)年、平安女学院のチャペルとして建築された。
ゴシック様式でレンガ造りの建物は立教学校(現立教大学)の初代校長であったジェームズ・ガーディナーの設計。
当時の竣工日記には「塔の紋が菊と紛らわしいので取り替えるよう警察から指示があった」と記述されているという。
同学内には足利義昭の旧二条城跡の石碑がある。

6・京都ハリスト正教会生神女福音聖堂 (京都市指定文化財) -京都市中京区柳馬場通二条上る-

生神女福音聖堂は1901(明治34)年に正教会京都聖堂として建築された。
建築様式はロシア・ビザンチン様式で、幅15m、奥行27m、高さ22mで玄関・聖所・啓蒙所・至聖所が一直線に並び、聖所を中心に十字架を形成しているという。
聖堂はロシア正教会から寄付されたモスクア製の聖像(インコ=神や天使を壁等に描いたもの)30枚がはめ込まれた聖障、教鐘、大灯明等があると言われている。

7・衣笠会館 (国登録有形文化財) -京都市北区下白梅町-       


1905(明治38)年、京都綿ネル㈱専務の藤村岩次郎氏の旧邸であった。
戦後、京都工芸繊維大学の所有となり外国人教員の宿舎に使用されていたこともあるという。
現在は文部科学省所管の財団法人衣笠会・繊維研究所として使われている。 



8・本願寺伝道院 (京都市指定文化財) 
  -京都市下京区東中筋通正面下る紅葉町-

1912(明治45)年、西本願寺真宗信徒生命保険会社の社屋として東京帝国大学伊東忠太教授の設計、竹中工務店の施工で建築された。
当初は「本館」のほか「付属室」「倉庫」などがあったようだが現在は「本館」
が残るのみ。


塔屋の形態や柵柱の石造怪獣などに特徴があるといわれている。    








9・旧柳原銀行 (京都市登録有形文化財) 
-京都市下京区河原町通塩小路下る下之町-

 1927(明治32)年、柳原町第二代目町長・明石民蔵らによって設立された銀行で、この地域が同和地区で差別のために融資を得られない皮革業者らに融資を行い、地元産業育成や振興に貢献し、その利子を地元の小学校の運営資金や道路建設資金に充てるなどをして地元へ貢献した。







大正時代に山城銀行と改称し営業を拡大したが、金融恐慌を受けて
1927(昭和27)年に倒産した。

§柳原地区の碑§
☆桜田儀兵衛氏の碑☆
桜田儀兵衛(1832~93年)は、市町村制施行の柳原町初代町長で、柳原小学校の建設、  私財を投じて貧困者救済、鉄道敷地交渉、コレラの発生防止、皮革工場へのドイツ人     技師招聘など地域の発展に貢献した。
その業績を顕彰して町民が石碑を建立した。

☆銭座場跡☆
  銭座場とは貨幣鋳造所のこと。
1698(元禄11)年、七条通りと高瀬川の交差する
現在の崇仁地区に銭座が設置され、寛永通宝の   鋳造が始まった。
1707(宝永4)年には宝永通宝(大銭)の鋳造が
始まり、1709(宝永6)年まで続けられたが鋳造所
は廃止された。 
その後、この地区は「銭座跡村」と呼ばれたという。

    **各写真はクリックで拡大します**



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