2010年2月19日金曜日

「京の碑」(その3)

「京都御苑」(その2)
「建礼門前大通り」 右端の大銀杏は「凝華洞」跡
1・「凝華洞跡」(ぎょうかどうあと) 
  別名を御花畑という名の屋敷跡で大きな銀杏の木が聳える小高い場所である。
  幕末の京都守護職・松平容保は多忙のため屋敷へ帰れない時に宿舎として使ったと
 言われている。
 また容保は蛤御門の変(禁門の変)では病を押して、
 この凝華洞で指揮を執ったと伝えられている。 


 2・「蛤御門」
  京都御苑の西に位置するこの門は「新在家御門」と呼ばれていたが、天明の大火(1788年)
  のとき、それまで閉じられていた門が初めて開門されたので「焼けて口開く蛤」に例えられて
  呼ばれた。
幕末の元治元年7月、京都へ侵入した長州藩は対立する会津や薩摩藩、新撰組、桑名藩と 激突、これが有名な「蛤御門(禁門)の変」である。この戦いに敗れた長州藩は、家老の福原 越後や尊攘派の久坂玄瑞、来島又兵衛らが 自害して果てた。


この時の「どんどん焼け」と呼ばれる大火で、京都の北は一条通りから南は
七条・東本願寺に至る広い範囲が焼失した。

3・「西園寺邸跡と白雲神社」
西園寺家は藤原北家の流れで琵琶の宗家である。
鎌倉時代に今の金閣寺に別荘を持っていて、
そこに建立された「西園寺」という寺名に由来している。
公家の頂点である摂政や関白を務めていたが足利義満に無理やり譲渡させられて金閣寺が建てられた。
白雲神社



白雲神社は御所の妙音弁財天 として知られ西園寺家の鎮守社である。
邸内は西園寺家が私塾「立命館」を創建した地でもある。

4・「賀陽宮邸跡と貽範碑」
賀陽宮邸跡
賀陽宮(かやのみや)は久邇宮家から明治に設立された宮家。
第二次大戦後、敗戦の責任を痛感して皇籍を離脱。
東京の宮邸は現在、千鳥ケ淵戦没者墓苑になっている。


「貽範碑」(いはんひ)は久邇宮朝彦親王(後の賀陽宮)を子孫が讃えるために建立した碑。
子孫が讃えるために建立した碑。
朝彦親王は幕末に中川宮と称し、公武合体を唱え活躍した。
この碑は、一説に和宮を称えた碑ともいわれている。
「貽」は「残す」という意味がある。

5・「宗像神社・京都観光神社」
宗像神社は桓武天皇の命により、皇居鎮護のために九州筑紫の宗像神社から勧請された。
  









その境内に京都観光神社が昭和44(1968)年、恵まれた観光京都に感謝するため、業者の手で創建された神社。                               
           
6・「閑院宮邸跡」
皇居の皇統を絶やさぬために四家の世襲親王家が設けられ、その一つ。   
あとは桂宮家、伏見宮家、有栖川家(高松宮)。
この閑院宮邸は江戸時代の公家屋敷として、ほぼ完全な形で京都御所に残っている。






7・「九条邸跡」
九条家は五摂家の一つで、幕末の当主で関白の九条尚久は、親幕派で和宮降嫁では大いに手腕を振るったが、文久2年の寺田屋事件では勤皇の志士から標的にされ、同年6月に関白職を辞任した。
明治2年の東京へ移り邸も取り壊され、現在は庭園の池と茶 室であった拾翆亭が残る。

拾翆亭

8・「厳島神社・破風形鳥居」
九条邸内の拾翆池の中にある神社。
広島・安芸の厳島神社から分社された。

平清盛の母祇園女御が合祀されている。






神前の破風形鳥居は重要美術品に指定されている。    


(各写真はクリックで拡大します)

京都御苑略図

   



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