2010年4月10日土曜日

「京の碑」(その5)

1・二条・三条・花山天皇稜参道碑(北野天満宮表)
2・佐久間象山墓案内碑(北野天満宮南)
佐久間象山の墓は妙心寺にある。
その案内碑が雑貨商品に囲まれて細々と建っている。
時代を反映してのことか、嘆かわしいというか、
やはりしっくりこない。



3・北野廃寺跡碑(上京区北野白梅町東北角)
飛鳥時代から平安時代中期の京都最古の寺院跡
で、現在の北野白梅町を中心に約100m四方で
あったらしい。
今の太秦広隆寺の前身である蜂岡寺ではない
かと推測されている。
現在は、北野白梅町交差点北東角の京都信用
金庫北野支店の新築記念に昭和52年11月に
建立された碑が立っている。

4・大将軍八神社(上京区北野白梅町下る東入る)
平安京遷都のとき、桓武天皇が大将軍を祭神とする4つの大将軍神社を都の四方に置いたのが始まり。









大将軍とは陰陽道の方位の神であり、また建築や転居、旅行などの方角の吉凶を司る神でもある。
その4つは、東は東三条大将軍、北は西加茂大将軍、南は藤森神社内で、西はこの大将軍八神社と言われている。

5・聚楽第跡碑(上京区中立売通り堀川西)
豊臣秀吉が政庁兼邸宅として建造した聚楽第は「第」と呼ばれるが、実質は本丸、北の丸、西の丸、二に丸などを持つ「城」であった。



天正14(1586)年の着工から
約1年半で完成した。
天正16年には後陽成天皇の行幸を迎えて饗応し、また徳川家康の謁見も行った場所でもある。後に関白・豊臣秀次が譲られるが、秀吉の勘気にふれて切腹し、聚楽第は廃却された。

 聚楽第碑の横に平安京の大蔵省碑がある。当時の金銭貨幣・金銀珠玉・雑物等を管理した役所があったと推測されている。

大蔵省碑の右に唐津小笠原藩邸跡の碑が立っている。





その約300m東(中立売通大宮)に聚楽第本丸東堀跡が発掘調査で判り、その碑が建てられている。

6・京都中心部の空襲被災地碑:第二次世界大戦時
(上京区西陣・知恵光院通~出水通一帯)


京都は太平洋戦争(第二次世界大戦)では文化財が多いため空襲を免れたと言われるが、一説には原爆投下候補地で被災検証を行うために最後まで空襲を控えたとも言われている。
京都の空爆被災は3ケ所あり東大路五条の馬町、右京区の三菱会社とこの西陣
地区であった。昭和20(1945)年6月26日午前9日半ころ米軍爆撃機B29が西陣
地域に焼夷弾7発を投下した。死者43名、重軽傷者66名、被災家屋292戸、
被災者850人と記録されている。

7・平安宮内裏 綾綺殿(りょうきでん)跡 (上京区浄福寺通下立売上る)
平安京内裏の中心的建物である仁壽殿(にんじゅでん)の東にあった内裏十七殿舎





の一つで、東西二間、南北九間あり、天皇がお召し替えをされる場所で、宮中恒例
行事に使用する御物を収納する納殿(おさめでん)として使用されていた。


8・平安宮内裏 宜陽殿(ぎようでん)跡 (綾綺殿の南)
内裏の綾綺殿の南に位置し、天皇累代の御物・宝物を保管しておく納殿で、西庇
に左近衛陣座が置かれ陣定(じんさだめ)が行わ
れた。
陣定とは朝議の形式の一つで、公家や大臣と四位の参議以上の議政官が出席して政務を討議した場所。
陣定は後に紫宸殿の軒廊へ移転された。




9・平安宮内裏 承明門跡 (上京区下立売通千本東入る)


承明門は内裏の紫宸殿の南正面に位置し天皇の行幸や即位式などの出入りに用いられる門で現在の京都御所にもある。 

             平安京大内裏図

10・宴の松原跡碑 (上京区出水通千本西入る)
平安京大内裏の西に広がった松林を宴(縁)の
松原と言い、内裏の建て替えの代替地とも
饗宴が行われた場所とも言われている。

11・木村長門守重成邸跡 (上京区下立売通千本西入る)
木村長門守重成は豊臣秀頼の
家臣で、大阪夏の陣で戦死した
武将。
この場所は聚楽第が築かれた
ときの重成邸跡と言われている。
なお、この地は「長門町」と言い、
木村重成邸宅に起因する町名であろう。




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