2010年3月23日火曜日

「京の碑」(その4)

京都府庁
1・京都守護職上屋敷址碑(京都府庁内)
京都府庁は幕末の京都守護職上屋敷が
あったところで、会津藩の松平容保が
京都所司代・京都町奉行・京都見廻組・
新撰組などを傘下に市中の治安維持に
努めた。 


(写真はクリックで拡大します)


2・京都府庁東方(京都御苑西)の碑たち
A・管家屋敷址(烏丸通り丸太町上る)










言わずと知れた菅原道真公の神社で、生誕の地と言われている。
ただ京都には道真公生誕の地は数か所あって、どれが本当か定かでない。

B・旧二条城跡(下立売通り室町)
織田信長が足利15代将軍・義昭の御座所(居城)として建てた城。発掘調査では金箔瓦が発見されており、二重の濠や三重の天守を備え、内装には金銀をちりばめ、庭には泉水築山が構えられていた。
(ルイス・フロイスの報告書)

本能寺の変のとき、信長の長男・信忠は
ここで明智軍と戦い火を放って自刃した。
(現存する二条城とは別)




C・斯波氏武衛陣・足利義輝邸跡(室町通り下立売下る)










「武衛陣町」という変わった町名がある。
室町幕府の守護名で「武衛」と呼ばれた斯波義将の屋敷があった場所で、その後、
13代足利義輝が邸宅を構えて幕府を置いた。
しかし間もなく三好長慶、松永久秀に襲われて屋敷は焼失し、義輝も戦死した。

3・茶屋四郎次郎屋敷跡(京都府庁西)
代々徳川家側近の将軍家呉服職で貿易、外交政策等で活躍、京都の角倉家、後藤家(金座改役)と共に三大長者と言われた。

本姓は「中島」であったが小川通り出水
上るの茶屋町に本邸を構えてから
「茶屋」と改めたという。

また「四郎次郎」は世襲の名で代々四郎
次郎と称した。


4・桂昌院菩提寺「真敬寺」(下立売通り堀川西)










桂昌院は「生類憐みの令」で有名な犬公方・徳川5代将軍・綱吉の生母である。
桂昌院は京都堀川出水西の八百屋の娘で「お玉」と言った。
そのお玉が縁あって江戸城大奥へ侍女として仕えたところ、三代将軍・家光の目に
とまり手が付き、生んだ子が将軍になった。 文字通り「玉の輿」であった。
その八百屋の菩提寺が「真敬寺」。

5・京都市電北野線記念碑(北野天満宮前)
明治28(1895)年、平安遷都千百年記念に併せて内国博覧会が京都で開催され、日本最初の市街電車が走った。
最初は京都電気鉄道で運営された後に京都市に買収された。
当初は京都駅~中書島間の伏見線が開通され、順次、岡崎~木屋町二条~京都駅、祇園~四条大宮、西大路四条~梅津、京都駅~北野間の北野線など数種の路線が開通された。

その市電は、昭和36(1961)年7月31日に廃止された。

   

6・北野天満宮境内の碑(北区)
無実の罪で九州・大宰府へ流されていた菅原道真公は、延喜3(93)年2月25日
逝去、その後、京都の現在地に祀られた。(毎月25日は天神さんの縁日)

A・影向松(ようごうのまつ)
毎年初雪の日に天神さんが降臨されて歌を
読まれるという松。

(正面鳥居を入った右側)




B・露乃五郎兵衛碑
江戸時代初期の上方噺家で京落語の祖と
言われた名人噺家。
ここ天満宮で落語を演じた露乃五郎兵衛の
記念碑が建つ。    





C・東向観音
菅原道真公作の十一面観世音菩薩像を祀る。
明治天皇皇后の昭憲皇太后の勉学所なり。
D・伴氏廟(ともうじびょう)

菅原道真公の母君の墓。








E・土蜘蛛塚
平安時代中期の武将・源頼光は原因不明の熱病
にかかり、ある夜、怪しげな法師が現れたので
斬りつけたところ血痕が北野の森まで続いて
おり、そこに大きな蜘蛛がいたので退治して、
熱病を治したという謂れがある塚。


F・太閤の北野大茶会址                        G・茶会で使われた井戸      








H・「さざれ石」





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