2010年11月29日月曜日

「京の碑」(その7)


『軒を並べた河原の家では、
電灯のついた下で
向き合って酒を呑んでゐる
などがみられた』
*志賀直哉「暗夜行路」より*

(←鴨川・丸太町橋北)

 鴨川丸太町橋西詰を北へ入った辺りは、昔の三本木遊郭の跡。
明治期には旅館街として栄え、与謝野晶子や白樺派、明星の詩人や作家などが
泊まっていた。  志賀直哉もその一人だった。
今回は、幕末の史跡の多い三本木通りや木屋町を歩いた。

1・立命館草創の地  (上京区東三本木通り丸太町上る)

西園寺公望の秘書官中川小十郎が1900(明治
33)年に私立京都法政学校(後の立命館大学)を
ここに開校した。
この場所は幕末のころ桂小五郎の妻・幾松が
芸者時代に出ていた吉田屋の跡。
 当時小五郎が同志と密会し、後の清輝楼で
 ある。
 2・山紫水明処   (上京区東三本木通り丸太町上る)
  日本外史の著者・頼山陽が1822(文政5)年に
建てた水西荘の離れ家を「山紫水明処」とした。
煎茶を好んだと言われる山陽は、東山を望む
風光明媚な景観を取り入れ、来客に煎茶を
振る舞ったようである。
室内は4帖半と2帖に半帖ほどの板の間で、
鴨川側に縁側があるのみの小さい離れ家。
この小庵は大正11年に史跡名勝に指定され、現在は国指定史跡になっている。

3・女紅場   (中京区駒之町:丸太町橋西詰南側)
日本最初の女学校として
1872(明治5)年に設立さ
れた「新英学校女紅場」で、
1873年以降は市中女紅場
を各学区に設置し、裁縫
手芸などを教えた。
1923(大正12)年に京都府立
第一高等女学校と改称、
1948(昭和23)年に京都府立
鴨沂高等学校となった。
卒業生に森光子、沢田研二、田宮二郎など。
        (各写真はクリックで拡大します)

4・高瀬川一の船入り   (中京区木屋町二条下る)
『・・・智恩院の桜が入相の
     鐘に散る春の夕べに 
     これまで類のない珍しい
罪人が高瀬舟に載せられた』
    *森鴎外「高瀬舟」より*
高瀬川は1611(慶長16)年
ころ角倉了以が開削した
人工の運河である。
木屋町二条から遠く宇治川
まで流れており、船荷を揚げ下ろしする船溜所を「船入り」といった。

5・角倉了以邸跡  (中京区木屋町二条下る・日本銀行京都支店東)
安土桃山・江戸時代初期の
豪商角倉邸跡。
安南(ベトナム)へ貿易船を派遣
するなど商人として活躍した
ほか、富士川、天竜川、大堰
川、高瀬川等の開削を行い
船運を開いた人。
高瀬川は鴨川の水を二条
大橋西詰から引き入れ
伏見までの約10kmを運河
として開削し、大阪から淀川を運ばれた物資を高瀬川を使って京都の中心まで船で運ぶことを可能にした。

6・大村益次郎&佐久間象山 (中京区木屋町御池上る)
左:大村益次郎碑  右:佐久間象山碑
三条小橋:大村・佐久間遭難碑







*大村益次郎*
幕末長州藩兵の指揮官で戊申戦争では官軍の総指揮官として活躍した。
元は医者であって、ドイツ人医者シーボルトの娘イネや高野長英
門下の俊英・大野昌三郎らと知り合い、蘭学や西洋兵学を修めた。
1869(明治2)年9月、軍事施設視察のため京都三条木屋町上る
の旅館で会食中に刺客に襲われ、数日後に死去した。
享年46歳。司馬遼太郎「花神」の主人公。

*佐久間象山*
信濃松代藩士、兵学者で思想家。
自信過剰で傲慢なため敵も多かったが、当時の日本では洋学の
第一人者であった。
象山の弟子には吉田松陰、勝海舟、河井継之助、橋本左内などがおり、幕末動乱期に多大な影響を与えた人物である。
1864(元治元)年7月、三条木屋町上るの寓居への帰路に河上彦斉らによって暗殺された。享年54歳。
ちなみに奥さんは勝海舟の妹で、長男(妾の子)は後に新撰組隊士になった。

7・桂小五郎・幾松寓居跡 (中京区木屋町御池上る)
ここには長州藩控屋敷があった。
この西、現京都ホテルオー
クラの一帯が長州藩邸で
あった。

幕末長州藩の志士・桂小五郎(後の木戸孝允)と芸者幾松がしばしば逢瀬を楽しんだ場所である。維新後、幾松は木戸孝允と結婚して木戸松子となる。
1877(明治10)年、孝允が亡くなり木戸別邸となっていたここに松子は住み、剃髪して翠香院と号し明治19年、44歳で亡くなった。

8・武市瑞山寓居跡  (中京区三条木屋町上る)
土佐藩士・武市半平太(瑞山
は号)は、京都で幕府に対し
て攘夷を命じる勅使を江戸へ
派遣するため三条通り木屋町に寓居を構え活躍した。
1862(文久2)年4月の土佐藩参政・吉田東洋暗殺事件に関与したとして投獄された岡田以蔵ら4名は斬首、瑞山は切腹を命じられた。享年37歳。
瑞山辞世の句「ふたたびと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ身となりにけり」

9・池田屋  (中京区三条通り木屋町上る)
元治元年6月5日(1864.7.8)三条小橋の旅篭
池田屋で密談していた長州藩士や土佐藩士
などの尊王攘夷派30数名を新撰組が急襲した
「池田屋事件(事変)」の場所。
密談内容は尊王攘夷派が祇園祭りの風の強い日に京都御所に火を放ち、中川宮を幽閉した上で、一橋慶喜・会津藩の松平容保らを暗殺し孝明天皇を奉じて長州へ連れ去るというものであった。
計画を知った新撰組の近藤勇ら10名が斬り込み、続いて土方歳三ら24名が駆け付けて、志士9名が討ち取られ4名が捕縛された。
翌日には20数名が捕らえられた事件。
現在は居酒屋チェーン店が開業しており、店内に大階段があるらしい。

10・慈舟山瑞泉寺  (中京区三条木屋町下る)

豊臣秀吉の甥で関白豊臣秀次とその一族の墓がある寺。
秀次は秀吉の養子となり関白職につくも秀吉に実子・秀頼が生まれると次第に疎まれるようになり、1595(文禄4)年、高野山へ追放された。
同年7月、切腹を命じられ死亡。享年28歳。
死後、鴨川三条河原にて秀次の曝し首の前で妻妾や遺児など一族39名が斬首され河原に埋められた。
慶長16年、角倉了以が高瀬川開削のとき、彼らを哀れみ菩提を葬った。

11・坂本竜馬寓居跡 (中京区木屋町上る:竜馬通り)
竜馬の寓居「酢屋」は代々嘉兵衛を名乗り260年も続いた材木商で、高瀬川畔にあって木材の輸送を独占的に扱っていた。
坂本竜馬は酢屋の2階に住んで海援隊京都本部とし、酢屋嘉兵衛の支援を受けて活躍した。
1867(慶応3)年11月15日、竜馬は近くの近江屋において中岡慎太郎と共に暗殺された。(右写真:遭難碑)
暗殺者は諸説あり、未だに犯人は特定されていない。
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