平安宮大内裏の正面が朝堂
院で天皇や八省百官の朝参
を行い、即位式や諸政を行っ
たところで、その正門が応天
門であった。
1177年、三度目の大火(太郎
焼亡)にかかり再興はされな
かった。
として大内裏の朝堂院を模した建物が京都・岡崎
に建てられた。
それが現在の平安神宮である。
← 大極殿の標識
← 平安神宮
2・平安宮内裏内郭回廊跡 (上京区下立売通千本東入る)
天皇の住居であった内裏は厳重な築地回廊で囲まれていた。
昭和38年の下水道工事で発見され、その後の発掘調査でさらに明らかとなった。
この回廊の幅は10.5mあり、現在知られている内裏の確実な遺跡としては唯一のものといわれている。
3・平安宮一本御書所跡 (上京区下立売通知恵光院西入る)
内郭回廊跡の前に200年近く油専門の歴史を持つ山中油店前に「平安宮一本御書所跡」という碑が立っている。「一本御書」とは「1.世間で流布した書籍を“一本(一部)”づつ写して保管した」と、また「2.一本書(一冊しかない稀な本)を保管した」という2説があるが,「一本」の解釈によって分かれている。
4・豊樂殿跡 (上京区七本松通丸太町下る)
で、元旦の節会、新大嘗祭の節会、外国使節入朝
時などの国家的饗宴が行われた場所といわれて
いる。
1063(康平6)年、豊楽院は焼失し以後再興される
ことはなかった。
豊楽殿は東西39.3m、南北16.2mの建物で、屋根
には鳳凰が羽を左右に大きく広げた鴟尾も発見
されている。
←(鴟尾=しび=瓦の大屋根の両端の飾り)
平成2年に史跡に指定されたが、同20年に
北側の「平安宮内裏内郭回廊跡」と統合し
「平安宮跡・内裏跡・豊楽院跡」と名称が
変更された。
(各写真はクリックで拡大します)
平安宮造酒司は、ミキノツカサ、サケノツカサとも呼ばれ宮内省
所属の官職で、天皇や中宮
に供する酒 ・ 醴(あまざけ)・
酢などを醸造していた。
現在の京都市生涯学習総合
センター「京都アスニー」の
敷地内で発掘された「造酒司
倉庫跡」で、醸造用の米など
を保管する高床式倉庫の遺構と見られている。
6・出世稲荷 (上京区千本丸太町下る)
元は豊臣秀吉の聚楽第に創建された神社。
後陽成天皇が行幸し、立
身出世した秀吉に因んで
「出世稲荷」の号を授けた
が、聚楽第取り壊し後、
ここへ遷座した。
この東入口の鳥居には
牧野省三、尾上松之助の
名前が刻まれている。→
日本最初の撮影所「二条
城撮影所」が近くにあり、日活撮影所長の池永浩久らが信仰したという。
牧野・尾上・池永の三氏が向拝を寄贈し、
今も境内の石碑に記されている。
なお昭和7年、この境内に「大京都中心塔」と呼ばれた「京都タワー」
(高さ20m前後)が建てられ「出世稲荷の中心塔に、かけた願いの
いま届く・・・」という歌がありレコードまで出されたらしいが、戦後の
昭和20年代に取り壊されたという。
7・平安宮大内裏朱雀門址
(上京区千本通押小路上る)
朱雀門は平安宮大内裏南面中央の
門で、七間五戸の重層で「重層門」
と呼ばれ、入母屋造り、瓦屋根の
両端に鴟尾を置いていた。
朱雀大路の起点であったが、1227(安貞元)年の火災で焼失、以後、再建されなかった。
8・東西町奉行所 (JR二条駅前)
与力・同心と呼ばれる職員を持った町奉行所は京都の市政一般の行政、司法、警察の職務を担当し、さらに畿内の幕府領の租税徴収や寺社領の訴訟処理を担当した幕府の役所であって、その存在は幕末まで続いた。
式部省の管轄下にあり、大学頭以下の事務官、儒学専攻、数学専攻の学生等で構成されており、官人養成機関であった。源氏物語にも光源氏が子の夕霧を大学寮へ通わせる描写がある。
(各写真はクリックで拡大します)
10・福井藩邸跡 (二条城前・京都国際ホテル前)
越前福井藩邸のあった場所で、幕末の藩主・松平春嶽(慶永)の側近であった橋本左内の寓居も
北隣にあった。
橋本左内は14代将軍を巡る将軍継嗣問題で一橋慶喜公擁立する運動で活躍した。
1859(安政6)年、春嶽が隠居謹慎処分を命じられた後、大老になった井伊直弼により将軍継嗣問題に介入したことが罪に問われて(安政の大獄)囚われ、小塚原にて斬首の刑に処せられた。享年26才であった。
11・堀川天皇里内裏跡 (二条城前・京都国際ホテル前)
以後、白川・堀河・鳥羽の各天皇の里内裏となった。特に堀河天皇が愛用され、ここで成人し、受禅され、そして崩御された。
「里内裏」とは、平安時代以降、平安宮内裏以外の邸を天皇の在所(皇居)として使用したものを指す。「京内に置かれた臨時の内裏」という意味。
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