2010年1月30日土曜日

「京の碑」(その2)



 「京都御苑」(その1)
 
 京都御苑(63万㎡:甲子園球場16ケ分)の
「碑」(いしぶみ)を中心に歩いた。

 1・「石薬師御門」
  京都御苑には9つの門がある。
その御苑の北東に位置する御門である。

 2・「染殿井」“御苑名水の一つ”(京都迎賓館東)
 平安時代の摂政の藤原良房の屋敷が「染殿第」があった場所。
 ここにある井戸の遺構が「染殿井」と呼ばれて
いる。

京都三名水の一つと言われる梨木神社の
「染井」が京都御苑の東にあるが、御苑内
の「染殿井」と同じ水脈と推測されている。

(写真はクリックで拡大します)

3・「裕ノ井」(裕宮:さちのみや=明治天皇の幼名)(今出川口南)

 明治天皇の産湯を使ったという井戸。
明治天皇の生母は権典侍・中山慶子で、その実家の旧中山家の遺構。

4・「桂宮邸跡」 (今出川口:中山邸南
ここは門のみ残っていて、桂宮邸は明治に入ってから二条城へ移築された。




5・「今出川御門」 (今出川通同志社大前)      6・「朔平門」(御所最北端の門)









7・「近衛邸跡」と「近衛池」 (今出川御門南)
平安時代以降、常に貴族の最高位にあった家柄で、多くの摂政や関白を排出した。
現在は庭園のみで邸宅のあった所に池が残っている。
毎年枝垂れ桜の池は見事な花で見物人を集めている。










8・「猿ケ辻」 (御所の東北角)
京都御所の東北は鬼門とされて、築地塀の角が欠けて造られていて、日吉山王社のお使いである猿を祀ってある。


この猿は毎夜抜けだし人にいたずらをするため金網に封じ込められたと伝わる。
幕末の尊王攘夷派の姉小路公知が襲われ殺された「猿ケ辻の変」で有名なところ。
犯人として捕らえられた薩摩藩士・田中新兵衛は証拠品として出された刀で取り調べ中に自刃して果てたため真相は不明のまま。姉小路公知の墓は梨木神社の東の清浄華院にある。


9・「一条邸跡」 (乾御門東)        
一条家は九条家の分かれで五摂家の
一つである。
室町時代の一条兼良は東当代一流の
学者で、その息子の尋尊は奈良興福寺
の別当を務め、見聞した記録を書き残
した「尋尊大僧正記」は、この時代を
知る上で重要な資料となっている。
明治天皇の皇后・昭憲皇太后は一条家出身である。

10・「縣 井」(あがたい:京都御苑三名水の一つ)(乾御門南)

もと一条家屋敷跡で、この縣井戸は
昭憲皇太后の産湯に使われたと言
われ、古くから洛陽の名水とされて
きた。
昔、この井戸のそばに縣宮があって
地方官吏の就職志願者は井戸で身
を清め、その宮に祈願してから参内
といわれている。
周囲に咲く山吹は多くの歌に詠み込まれている。



11・「和宮生誕の地」(橋本家跡) (京都迎賓館西)
孝明天皇の妹・皇女和宮親子内親王生誕の地
がある。母が典侍・橋本経子でこの橋本家で
14年間養育された。
幕末に公武合体をすすめるため徳川14代
将軍家茂に嫁ぎ、幕末の動乱期を生き、
明治10年32歳で療養先の箱根で没した。
墓は徳川家菩提寺の東京・増上寺にある。

12・「学習院跡」 (御所 建春門前)

弘化4年(1847)、孝明天皇が40歳以下の公家をはじめ御所勤務の役人とその子弟に学問を教えるための学習院跡。その名前は、東京の学習院に引き継がれている。


 13・「有栖川宮邸跡」 (建礼門前)
世襲親王家の一つ。
皇女和宮の婚約者として、また戊辰戦争時の東征大総督として、有名な有栖川熾仁親王や同家の登美宮吉子女王は徳川斉昭に嫁ぎ慶喜を生んでいる。
熾仁親王は明治10年の西南戦争では征討総督となり、同27年の日清戦争では参謀総長をつとめた。
14・「清水谷家の椋」 (蛤御門東)

公家・清水谷家の屋敷跡で大きな椋が目立つ。
蛤御門の変の時、長州藩士・来島又兵衛がこの木の場所で討ち死にした。
樹齢300年といわれる椋は、御苑内でも数少ない大木といえる。

京都御苑 略図
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