2010年12月12日日曜日

「京の近代建物」(その1)

京都市域における近代建築物で、国・京都府・京都市の登録を受けている文化財についてカメラ片手に巡ってみた。

明治時代(その1)
第一回目は同志社付近を歩いた。

1・礼 拝 堂(重要文化財)  (京都市上京区今出川通烏丸東入る)
同志社大学今出川キャンパスには重要文化財5棟など明治時代の優れた近代建築物が存在する。
この礼拝堂は、米国人D.C.グリーンが設計し、1886(明治16)年に竣工したアメリカン・グシック調の鉄板葺き煉瓦造り建物である。
日本におけるプロテスタント派の煉瓦造りの礼拝堂としては最古の建築物である。

2・彰 栄 館(重要文化財)
同志社教員で宣教師でもあったD.C.グリーンの設計によるゴシック様式の瓦葺き煉瓦造りで明治17年に竣工した。
京都市内に残る残る煉瓦造り建物の中では最も古い遺構である。
同志社中学校が2010年8月まで使っていた。


3・有 終 館(重要文化財)
前記の礼拝堂や彰栄館と同じ米人・グリーンの設計により1887(明治20)年に書籍館として建築された。
1922(大正11)年、図書館としての役割を終えた際、時の総長・海老名弾正が「有終館」と名付けた。







4・ハリス理化学館(重要文化財)

米国実業家J.N.ハリスの寄付でハリス理科学校(理工学部の前身)として1890(明治23)年にイギリス人A.H.ハンセルの設計による英国積みの煉瓦建築で竣工した建物である。






5・クラーク記念館(重要文化財)
 
ドイツ人R.ゼールの設計で1894(明治27)年に開館したドイツのネオ・ゴシックを基調とする八角の塔屋を持った重厚な建物で、アメリカ人のB.W.クラーク夫妻の寄付で建築され、同志社のシンボル的建物である。
2004年より保存修理工事が行われ、2008年2月に完了した。

6・新島襄旧邸(京都市指定文化財)




新島襄の私邸として彼自身が設計したと伝えられ、
明治11年に竣工した。
明治時代の和洋折衷住宅で、内部には明治初期の
家具57点が残されている。
(見学無料)



7・同志社フレンドピースハウス(登録有形文化財)

今出川通り寺町下る京都御苑の東にある。
1887(明治20)年に開業した同志社病院と京都看護婦病院の院長と校長を兼任した宣教師ジョン・C・ペリーの旧邸である。
現在も会議室や客員研究室、共同研究室や留学生寮として使用されている。

*以上が明治時代近代建築 同志社関連*


8・旧日本銀行京都支店[京都文化博物館](重要文化財) -京都市中京区三条通高倉-

1906(明治39)年6月、東京駅や日本銀行本店などを設計した辰野金吾が煉瓦造2階建ての日本銀行京都出張所として設計、竣工した。
1967(昭和42)年、日本銀行京都支店が河原町二条へ移転に伴い、1986(昭和61)年に京都府へ寄贈され、1988年10月に博物館別館として公開された。
ー玄関ー

9・中京区郵便局舎外観(京都市指定文化財) -中京区三条通東洞院-
ー屋上飾りー









1902(明治35)年、煉瓦造2階建て郵便局として建築された。   設計は吉井茂則。
1973(昭和48)年、郵政省は業務の機械化が対応できないと改築を計画。
「外壁を残す」意見を取り入れ、昭和51年に改築に着手。
内装を改築する「ファサード保存」を推進し昭和54年に完成した。
昔の雰囲気を残したまま内部改装する「外壁保存」第一号である。

10・京都府庁旧本館(重要文化財)  -上京区下立売通新町-

1904(明治37)年12月に竣工。
1971(昭和46)年まで京都府庁本館として使用されていた。
ー旧知事室ー
現在も会議室等で使用されており、創建当時の姿をとどめる現役官公庁建築物としては日本最古である。

ルネッサンス様式の外観は、正面の高い屋根を中心に左右対象に両翼が張り出した形になっている。
建物内部は和風様式も取り入れられており工芸品の風格を備えている。            

ー廊 下ー




京都府庁旧本館は映画・TVのロケに使われるところ。
NHKの3年越しの大河ドラマ「坂の上の雲」の海軍省の設定で正面玄関や中央階段、廊下などが使われた。
変わった利用方法では、結婚式場として貸しているので飲食以外の式のみなら格安で利用できる。

ー正 庁ー

ー正庁の天井ー
***各写真はクリックで拡大します***

2010年11月29日月曜日

「京の碑」(その7)


『軒を並べた河原の家では、
電灯のついた下で
向き合って酒を呑んでゐる
などがみられた』
*志賀直哉「暗夜行路」より*

(←鴨川・丸太町橋北)

 鴨川丸太町橋西詰を北へ入った辺りは、昔の三本木遊郭の跡。
明治期には旅館街として栄え、与謝野晶子や白樺派、明星の詩人や作家などが
泊まっていた。  志賀直哉もその一人だった。
今回は、幕末の史跡の多い三本木通りや木屋町を歩いた。

1・立命館草創の地  (上京区東三本木通り丸太町上る)

西園寺公望の秘書官中川小十郎が1900(明治
33)年に私立京都法政学校(後の立命館大学)を
ここに開校した。
この場所は幕末のころ桂小五郎の妻・幾松が
芸者時代に出ていた吉田屋の跡。
 当時小五郎が同志と密会し、後の清輝楼で
 ある。
 2・山紫水明処   (上京区東三本木通り丸太町上る)
  日本外史の著者・頼山陽が1822(文政5)年に
建てた水西荘の離れ家を「山紫水明処」とした。
煎茶を好んだと言われる山陽は、東山を望む
風光明媚な景観を取り入れ、来客に煎茶を
振る舞ったようである。
室内は4帖半と2帖に半帖ほどの板の間で、
鴨川側に縁側があるのみの小さい離れ家。
この小庵は大正11年に史跡名勝に指定され、現在は国指定史跡になっている。

3・女紅場   (中京区駒之町:丸太町橋西詰南側)
日本最初の女学校として
1872(明治5)年に設立さ
れた「新英学校女紅場」で、
1873年以降は市中女紅場
を各学区に設置し、裁縫
手芸などを教えた。
1923(大正12)年に京都府立
第一高等女学校と改称、
1948(昭和23)年に京都府立
鴨沂高等学校となった。
卒業生に森光子、沢田研二、田宮二郎など。
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4・高瀬川一の船入り   (中京区木屋町二条下る)
『・・・智恩院の桜が入相の
     鐘に散る春の夕べに 
     これまで類のない珍しい
罪人が高瀬舟に載せられた』
    *森鴎外「高瀬舟」より*
高瀬川は1611(慶長16)年
ころ角倉了以が開削した
人工の運河である。
木屋町二条から遠く宇治川
まで流れており、船荷を揚げ下ろしする船溜所を「船入り」といった。

5・角倉了以邸跡  (中京区木屋町二条下る・日本銀行京都支店東)
安土桃山・江戸時代初期の
豪商角倉邸跡。
安南(ベトナム)へ貿易船を派遣
するなど商人として活躍した
ほか、富士川、天竜川、大堰
川、高瀬川等の開削を行い
船運を開いた人。
高瀬川は鴨川の水を二条
大橋西詰から引き入れ
伏見までの約10kmを運河
として開削し、大阪から淀川を運ばれた物資を高瀬川を使って京都の中心まで船で運ぶことを可能にした。

6・大村益次郎&佐久間象山 (中京区木屋町御池上る)
左:大村益次郎碑  右:佐久間象山碑
三条小橋:大村・佐久間遭難碑







*大村益次郎*
幕末長州藩兵の指揮官で戊申戦争では官軍の総指揮官として活躍した。
元は医者であって、ドイツ人医者シーボルトの娘イネや高野長英
門下の俊英・大野昌三郎らと知り合い、蘭学や西洋兵学を修めた。
1869(明治2)年9月、軍事施設視察のため京都三条木屋町上る
の旅館で会食中に刺客に襲われ、数日後に死去した。
享年46歳。司馬遼太郎「花神」の主人公。

*佐久間象山*
信濃松代藩士、兵学者で思想家。
自信過剰で傲慢なため敵も多かったが、当時の日本では洋学の
第一人者であった。
象山の弟子には吉田松陰、勝海舟、河井継之助、橋本左内などがおり、幕末動乱期に多大な影響を与えた人物である。
1864(元治元)年7月、三条木屋町上るの寓居への帰路に河上彦斉らによって暗殺された。享年54歳。
ちなみに奥さんは勝海舟の妹で、長男(妾の子)は後に新撰組隊士になった。

7・桂小五郎・幾松寓居跡 (中京区木屋町御池上る)
ここには長州藩控屋敷があった。
この西、現京都ホテルオー
クラの一帯が長州藩邸で
あった。

幕末長州藩の志士・桂小五郎(後の木戸孝允)と芸者幾松がしばしば逢瀬を楽しんだ場所である。維新後、幾松は木戸孝允と結婚して木戸松子となる。
1877(明治10)年、孝允が亡くなり木戸別邸となっていたここに松子は住み、剃髪して翠香院と号し明治19年、44歳で亡くなった。

8・武市瑞山寓居跡  (中京区三条木屋町上る)
土佐藩士・武市半平太(瑞山
は号)は、京都で幕府に対し
て攘夷を命じる勅使を江戸へ
派遣するため三条通り木屋町に寓居を構え活躍した。
1862(文久2)年4月の土佐藩参政・吉田東洋暗殺事件に関与したとして投獄された岡田以蔵ら4名は斬首、瑞山は切腹を命じられた。享年37歳。
瑞山辞世の句「ふたたびと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ身となりにけり」

9・池田屋  (中京区三条通り木屋町上る)
元治元年6月5日(1864.7.8)三条小橋の旅篭
池田屋で密談していた長州藩士や土佐藩士
などの尊王攘夷派30数名を新撰組が急襲した
「池田屋事件(事変)」の場所。
密談内容は尊王攘夷派が祇園祭りの風の強い日に京都御所に火を放ち、中川宮を幽閉した上で、一橋慶喜・会津藩の松平容保らを暗殺し孝明天皇を奉じて長州へ連れ去るというものであった。
計画を知った新撰組の近藤勇ら10名が斬り込み、続いて土方歳三ら24名が駆け付けて、志士9名が討ち取られ4名が捕縛された。
翌日には20数名が捕らえられた事件。
現在は居酒屋チェーン店が開業しており、店内に大階段があるらしい。

10・慈舟山瑞泉寺  (中京区三条木屋町下る)

豊臣秀吉の甥で関白豊臣秀次とその一族の墓がある寺。
秀次は秀吉の養子となり関白職につくも秀吉に実子・秀頼が生まれると次第に疎まれるようになり、1595(文禄4)年、高野山へ追放された。
同年7月、切腹を命じられ死亡。享年28歳。
死後、鴨川三条河原にて秀次の曝し首の前で妻妾や遺児など一族39名が斬首され河原に埋められた。
慶長16年、角倉了以が高瀬川開削のとき、彼らを哀れみ菩提を葬った。

11・坂本竜馬寓居跡 (中京区木屋町上る:竜馬通り)
竜馬の寓居「酢屋」は代々嘉兵衛を名乗り260年も続いた材木商で、高瀬川畔にあって木材の輸送を独占的に扱っていた。
坂本竜馬は酢屋の2階に住んで海援隊京都本部とし、酢屋嘉兵衛の支援を受けて活躍した。
1867(慶応3)年11月15日、竜馬は近くの近江屋において中岡慎太郎と共に暗殺された。(右写真:遭難碑)
暗殺者は諸説あり、未だに犯人は特定されていない。
     *各写真はクリックで拡大します*

2010年8月25日水曜日

「京の碑」 (その6)

1・平安宮大極殿跡(朝堂院正殿) (上京区千本丸太町上る)
 平安宮大内裏の正面が朝堂
院で天皇や八省百官の朝参
を行い、即位式や諸政を行っ
たところで、その正門が応天
門であった。
1177年、三度目の大火(太郎
焼亡)にかかり再興はされな
かった。


1895(明治28)年、内国博覧会のパビリオンの一つ
として大内裏の朝堂院を模した建物が京都・岡崎
に建てられた。
それが現在の平安神宮である。
 ← 大極殿の標識    
                           


平安神宮

2・平安宮内裏内郭回廊跡 (上京区下立売通千本東入る)
   天皇の住居であった内裏は厳重な築地回廊で囲まれていた。
昭和38年の下水道工事で発見され、その後の発掘調査でさらに明らかとなった。
この回廊の幅は10.5mあり、現在知られている内裏の確実な遺跡としては唯一のものといわれている。


3・平安宮一本御書所跡 (上京区下立売通知恵光院西入る)      
内郭回廊跡の前に200年近く油専門の歴史を持つ山中油店前に「平安宮一本御書所跡」という碑が立っている。「一本御書」とは「1.世間で流布した書籍を“一本(一部)”づつ写して保管した」と、また「2.一本書(一冊しかない稀な本)を保管した」という2説があるが,「一本」の解釈によって分かれている。

4・豊樂殿跡 (上京区七本松通丸太町下る)
 豊楽殿は、平安京大内裏にあった豊楽院の正殿
で、元旦の節会、新大嘗祭の節会、外国使節入朝
時などの国家的饗宴が行われた場所といわれて
いる。
1063(康平6)年、豊楽院は焼失し以後再興される
ことはなかった。
豊楽殿は東西39.3m、南北16.2mの建物で、屋根
には鳳凰が羽を左右に大きく広げた鴟尾も発見
されている。

←(鴟尾=しび=瓦の大屋根の両端の飾り)

 平成2年に史跡に指定されたが、同20年に
北側の「平安宮内裏内郭回廊跡」と統合し
「平安宮跡・内裏跡・豊楽院跡」と名称が
変更された。
(各写真はクリックで拡大します)
5・平安宮造酒司倉庫跡 (上京区丸太町七本松西入る)
平安宮造酒司は、ミキノツカサ、サケノツカサとも呼ばれ宮内省
所属の官職で、天皇や中宮
に供する酒 ・ 醴(あまざけ)・
酢などを醸造していた。
現在の京都市生涯学習総合
センター「京都アスニー」の
敷地内で発掘された「造酒司
倉庫跡」で、醸造用の米など
を保管する高床式倉庫の遺構と見られている。

6・出世稲荷 (上京区千本丸太町下る)
元は豊臣秀吉の聚楽第に創建された神社。
後陽成天皇が行幸し、立
身出世した秀吉に因んで
「出世稲荷」の号を授けた
が、聚楽第取り壊し後、
ここへ遷座した。


 この東入口の鳥居には
牧野省三、尾上松之助の
名前が刻まれている。→
日本最初の撮影所「二条
城撮影所」が近くにあり、日活撮影所長の池永浩久らが信仰したという。
牧野・尾上・池永の三氏が向拝を寄贈し、
今も境内の石碑に記されている。
なお昭和7年、この境内に「大京都中心塔」と呼ばれた「京都タワー」
(高さ20m前後)が建てられ「出世稲荷の中心塔に、かけた願いの
いま届く・・・」という歌がありレコードまで出されたらしいが、戦後の
昭和20年代に取り壊されたという。

7・平安宮大内裏朱雀門址 
(上京区千本通押小路上る)
朱雀門は平安宮大内裏南面中央の
門で、七間五戸の重層で「重層門」
と呼ばれ、入母屋造り、瓦屋根の
両端に鴟尾を置いていた。
朱雀大路の起点であったが、1227(安貞元)年の火災で焼失、以後、再建されなかった。

8・東西町奉行所 (JR二条駅前)

与力・同心と呼ばれる職員を持った町奉行所は京都の市政一般の行政、司法、警察の職務を担当し、さらに畿内の幕府領の租税徴収や寺社領の訴訟処理を担当した幕府の役所であって、その存在は幕末まで続いた。
9・大学寮跡 (JR二条駅前・中京中学校南側)
平安宮の南にあった官吏子弟の教育機関で、今の国立大学に相当する。
式部省の管轄下にあり、大学頭以下の事務官、儒学専攻、数学専攻の学生等で構成されており、官人養成機関であった。源氏物語にも光源氏が子の夕霧を大学寮へ通わせる描写がある。

         (各写真はクリックで拡大します)

10・福井藩邸跡 (二条城前・京都国際ホテル前)
越前福井藩邸のあった場所で、幕末の藩主・松平春嶽(慶永)の側近であった橋本左内の寓居も
北隣にあった。
橋本左内は14代将軍を巡る将軍継嗣問題で一橋慶喜公擁立する運動で活躍した。
1859(安政6)年、春嶽が隠居謹慎処分を命じられた後、大老になった井伊直弼により将軍継嗣問題に介入したことが罪に問われて(安政の大獄)囚われ、小塚原にて斬首の刑に処せられた。享年26才であった。

11・堀川天皇里内裏跡 (二条城前・京都国際ホテル前)
藤原基経(836~891)の邸は堀川院(堀川殿)と呼ばれ、関白・藤原兼通によって改修され、円融天皇の時に初めて里内裏となった。
以後、白川・堀河・鳥羽の各天皇の里内裏となった。特に堀河天皇が愛用され、ここで成人し、受禅され、そして崩御された。 
「里内裏」とは、平安時代以降、平安宮内裏以外の邸を天皇の在所(皇居)として使用したものを指す。「京内に置かれた臨時の内裏」という意味。


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