千年の都「京都」には多くの歴史遺産が存在するが、その中の「碑(いしぶみ)」
を中心に辿ってみた。
1・牛若丸誕生井 (北区紫竹牛若町)
常盤御前が源義経(幼少名
牛若丸)をこの地で生んだ
と伝わる。
畑の中に産湯を使ったと
いわれる井戸の碑がある。
源義経産湯の遺跡碑
誕生井石碑を東へ行くと「牛若丸が誕生の際に使った」由来の石碑がある。
2・紫式部と小野篁墓所 (北区堀川通紫明西入る)
紫式部と小野篁の両者の生存時期には120年の
開きがあるのに何故同じ場所なのか?
一般には室町時代の「河海抄」に「紫式部の墓所
雲林院の白豪院の南にあり、小野篁の墓の西
なり」と記されていることから祀られているという。
3・日本電池発祥の地 (上京区新町今出川上る=同志社大学新町校舎)
ジーエス・ユアサ バッテリーは旧日本電池と旧湯浅電池が合併した会社で、その日本電池
の発祥工場がこの場所。
日本電池は島津製作所の元電池部門が独立した会社で、島津制作所の創業者・島津源蔵
が日本で初めて蓄電池を製造した。
日本電池バッテリーの商標の「GS」は島津源蔵の頭文字から採られている。
4・幕末の薩摩藩関連 ( 上京区烏丸今出川界隈)
幕末から明治への動乱期の蛤御門・鳥羽伏見の戦いで犠牲になった薩摩藩士72名
の墓所。
上京区相国寺東通り |
薩摩藩邸跡
5・長州藩士の墓 (相国寺墓地)
禁門(蛤御門)の変で薩摩藩の相手で
あった長州藩の殉難者墓所が相国寺
の墓地にある。
(各写真はクリックで拡大します)
長州藩士の墓の隣に藤原定家・足利義将・伊藤若冲
の三つの墓が並んでいる。
6・応仁の乱勃発地 (上京区鞍馬口東)
室町時代の八代将軍・足利義政の応仁元年(1467)に始まった「応仁の乱」で東軍が
この上御霊神社の陣を敷いた場所。
西軍は今の西陣地域に陣を構えて戦い、その戦乱は10年間も続いた。
元は大名・畠山家の内紛を将軍が調停に失敗したことから始まった。
7・花の御所「室町第」 (上京区室町今出川東)
足利三代将軍義満が鴨川から水を引き、各地の守護大名より
「大聖寺」 |
献上された花
木を配置した
と伝えられ
「花の御所」と
呼ばれた
将軍家の
邸宅である。
今出川通り、烏丸通り、上立売通り、室町通りに囲まれた
広大な土地であった。
その遺構の一
部が「大聖寺」
で、同志社大学
寒梅館の西に
現存する。
7・出町界隈 (上京区河原町今出川付近)
*阿弥陀寺*
天正10年、明智光秀の謀反により
本能寺で最期を遂げた織田信長
は長男信忠らと一緒にこの阿弥
陀寺に葬られているという。
阿弥陀寺を創建した清玉上人は
本能寺の変を聞き、知遇を得て
いた信長の遺骸をいち早く収め
当寺へ葬ったと言います。
*本満寺*(寺町通今出川上る)
戦国時代 山陰の大名・尼子家の家臣
山中鹿之介が本満寺に葬られている。
鹿之介が死んだのは天正6年、上月
城の戦いで毛利軍に敗れ捕虜となり
今の岡山県高梁市で謀殺された。
その後の鳥取市に菩提寺として
墓所が作られているが、何故、京都に鹿之介の墓があるのか疑問に思う。
ちなにみ大阪の豪商・鴻池家へ鹿之介の長男が商人になって築いた財閥である。
*尾上松之介像 (出町・葵公園内)
明治から大正へかけての日本初の映画スター。京都千本座の座主・牧野省三に見出されて映画
俳優となり、愛称「目玉の松ちゃん」として親しまれ、
1000本以上の作品に出演した。
*鯖街道口* (出町橋西詰)
サバずし |
海のない京の都では海の魚は珍重された。若狭・小浜から鯖街道を「新鮮な鯖」が
人々に担がれて京都・出町柳に到着する。 一振り塩の鯖は京都人の好物となり、
「サバずし」が発達し、京都名物ともなった。
*出町の道標 (上京区寺町通今出川東北角)
*大久保利通旧邸碑* (上京区寺町今出川下る)
明治の元勲・大久保利通が慶応2年から4年まで
住んだ邸宅跡がここにある。(石薬師通り)
西郷隆盛らとともに倒幕を果たしたが、後の西郷
とは征韓論で袂を分かち、西南戦争では西郷を
死に追いやった。
明治11年、東京紀尾井坂で暗殺された。
享年49歳。
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