2009年11月18日水曜日

「京の碑」(その1)



千年の都「京都」には多くの歴史遺産が存在するが、その中の「碑(いしぶみ)」
を中心に辿ってみた。

1・牛若丸誕生井 (北区紫竹牛若町)
常盤御前が源義経(幼少名
牛若丸)をこの地で生んだ
と伝わる。
畑の中に産湯を使ったと
いわれる井戸の碑がある。
源義経産湯の遺跡碑
誕生井石碑を東へ行くと「牛若丸が誕生の際に使った」由来の石碑がある。

2・紫式部と小野篁墓所 (北区堀川通紫明西入る)
紫式部と小野篁の両者の生存時期には120年の
開きがあるのに何故同じ場所なのか?

一般には室町時代の「河海抄」に「紫式部の墓所
雲林院の白豪院の南にあり、小野篁の墓の西
なり」と記されていることから祀られているという。

           
3・日本電池発祥の地 (上京区新町今出川上る=同志社大学新町校舎)

 ジーエス・ユアサ バッテリーは旧日本電池と旧湯浅電池が合併した会社で、その日本電池
 の発祥工場がこの場所。
 日本電池は島津製作所の元電池部門が独立した会社で、島津制作所の創業者・島津源蔵
 が日本で初めて蓄電池を製造した。
 日本電池バッテリーの商標の「GS」は島津源蔵の頭文字から採られている。

4・幕末の薩摩藩関連 ( 上京区烏丸今出川界隈)
 幕末から明治への動乱期の蛤御門・鳥羽伏見の戦いで犠牲になった薩摩藩士72名
 の墓所。
上京区相国寺東通り


薩摩藩邸跡







 5・長州藩士の墓 (相国寺墓地)
  
 禁門(蛤御門)の変で薩摩藩の相手で
 あった長州藩の殉難者墓所が相国寺
 の墓地にある。 

(各写真はクリックで拡大します)


  長州藩士の墓の隣に藤原定家・足利義将・伊藤若冲
 の三つの墓が並んでいる。  
 





6・応仁の乱勃発地 (上京区鞍馬口東)
室町時代の八代将軍・足利義政の応仁元年(1467)に始まった「応仁の乱」で東軍が
この上御霊神社の陣を敷いた場所。
西軍は今の西陣地域に陣を構えて戦い、その戦乱は10年間も続いた。
元は大名・畠山家の内紛を将軍が調停に失敗したことから始まった。

  7・花の御所「室町第」 (上京区室町今出川東)
足利三代将軍義満が鴨川から水を引き、各地の守護大名より
「大聖寺」

献上された花
木を配置した
と伝えられ
「花の御所」と
呼ばれた
将軍家の
邸宅である。
今出川通り、烏丸通り、上立売通り、室町通りに囲まれた
広大な土地で
あった。  
その遺構の一
部が「大聖寺」
で、同志社大学
寒梅館の西に
現存する。

7・出町界隈 (上京区河原町今出川付近)

*阿弥陀寺*
天正10年、明智光秀の謀反により
本能寺で最期を遂げた織田信長
は長男信忠らと一緒にこの阿弥
陀寺に葬られているという。
阿弥陀寺を創建した清玉上人は
本能寺の変を聞き、知遇を得て
いた信長の遺骸をいち早く収め
当寺へ葬ったと言います。

*本満寺*(寺町通今出川上る)
戦国時代 山陰の大名・尼子家の家臣
山中鹿之介が本満寺に葬られている。
鹿之介が死んだのは天正6年、上月
城の戦いで毛利軍に敗れ捕虜となり
今の岡山県高梁市で謀殺された。
その後の鳥取市に菩提寺として
墓所が作られているが、何故、京都に鹿之介の墓があるのか疑問に思う。
ちなにみ大阪の豪商・鴻池家へ鹿之介の長男が商人になって築いた財閥である。

 
*尾上松之介像 (出町・葵公園内)              
  明治から大正へかけての日本初の映画スター。
     京都千本座の座主・牧野省三に見出されて映画
   俳優となり、愛称「目玉の松ちゃん」として親しまれ、
     1000本以上の作品に出演した。                             



*鯖街道口* (出町橋西詰)
サバずし

海のない京の都では海の魚は珍重された。若狭・小浜から鯖街道を「新鮮な鯖」が
人々に担がれて京都・出町柳に到着する。 一振り塩の鯖は京都人の好物となり、
「サバずし」が発達し、京都名物ともなった。

*出町の道標 (上京区寺町通今出川東北角)

*大久保利通旧邸碑* (上京区寺町今出川下る)
明治の元勲・大久保利通が慶応2年から4年まで
住んだ邸宅跡がここにある。(石薬師通り)
西郷隆盛らとともに倒幕を果たしたが、後の西郷
とは征韓論で袂を分かち、西南戦争では西郷を
死に追いやった。

明治11年、東京紀尾井坂で暗殺された。
享年49歳。




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